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東劇おつかれさまでした!萃符伝担当の方が遅刻してきて開演前はどうなることかとハラハラしましたが(笑)、無事に一日を過ごすことができました。
えー、私は途中からVISION大会だったわけですが;チーム優勝しちゃったよ(アリスチーム)。

東劇の記事は別記事にするとして、今回の記事は前回の続きになります。途中から読んでも意味不明だとおもうので、前回の記事を読んでからどうぞー。


PREVIOUS ON THE ARTICLE (前回までの記事)


タイトルは24から(ry

  • 戦略性やバランスを追求すれば「おもしろいゲーム」はできるけれど、「繰り返し遊びたくなる」ゲームにはならない

  • 「繰り返し遊びたくなる」カードゲームは、イラストが重要

  • でも、綺麗なイラストを使ったゲームでも、繰り返し遊ばれているものと、そうでないものがある。その差はどこに?



    • その差=ストーリーのイメージしやすさ


      リセもヴァイスシュヴァルツなど、既存の作品からキャラクターを持ってきたゲームは成功している、ということがわかりました。(ここでの成功とは、繰り返し遊ばれるということです)
      これはなぜでしょう?考えられる理由は、「プレイヤーがキャラクターに思い入れがあるから」です。この理屈はわかりやすいですね。だれだって好きなキャラクターを使ってゲームをしたいと思いますもの。
      とはいえ、これが完全な解答とはいえないでしょう。リセには数多くの作品からキャラクターが登場していますが、リセプレイヤーはすべての作品をプレイし、愛しているのでしょうか。かなり疑わしいところです。有名なゲームからキャラクターを持ってきていますから、登場キャラクターを全く知らないということはないにしても、(私見ながら)「○○は俺の嫁」と公言して憚らないプレイヤーほど、往々にしてそれ以外のキャラクターにさほど思い入れのない印象があります。
      先ほどの仮説の根幹を変えないような修正は可能でしょうか。たとえば、「プレイヤーがキャラクター間のストーリーを想像できるから」というのはどうでしょう?
      「○○がもし、△△の世界で活躍していたら」「○○がもし、△△と友人だったら」などという、いわゆる"クロスオーバー"作品は(常に浴びせられる激しい批判にも関わらず)古今東西を問わず存在します。クロスオーバーとまでゆかなくとも、原作に描かれていないシーンやストーリーを妄想して楽しんだ経験はだれにでもあるのではないでしょうか。
      つまり、既存のキャラクターを使ったカードゲームが成功する理由は、それぞれのキャラクターの世界観や設定が細かく定められており、別のキャラクターとの魅力的なストーリーを思い描きやすいからではないでしょうか?いや、そうに違いない!

      世界設定やビジュアルは、ストーリーのための小道具、ストーリーの補助装置だ


      ストーリーのイメージしやすさがゲームを面白くする要因だと考えると、いろんなことが納得できます。美しいビジュアルが好まれるのはキャラクターをより強く連想するためで、フレーバーテキストはカードがどのような状況を表しているかを示すため。実質的に誰も読んでいないMagic: the Gatheringの単行本も、”読んだ人がプレイすればより面白いゲームができる”からこそ、毎回書き下ろされているんですよね。
      むしろ、どのプレイヤーも無意識にストーリーの重要性を理解しているのではないでしょうか。そうでなければ、ファンデッキなんて成立しませんよね!

      第一章まとめ;カードゲームには戦略性やゲーム性以外に、「ゲームを面白くする要素」がある。それは、「プレイヤーがカード同士のストーリーを想像すること」である。




      東方の二次創作は、コンメディア・デッラルテのような即興劇(幻想劇)である


      さて、「カードゲームを面白くする要素」がわかったところで、いったん別の話に入りましょう。
      次の話題は、「萃符伝はなぜ東方ジャンルなのか」です。いいかえれば、カードゲームをつくりたいだけならオリキャラや他ジャンルでもかまわないのに、なぜ東方ジャンルで制作しているのかなのか、ということです。もちろん制作者が東方好きだからということが一番ですが、それとは別に「東方同人がカードゲームそのものであるから」という理由があります。これを解説しましょう。

      びっくりするほど幻想郷


      (この部分は前置きなので、読み飛ばしてもかまいません。)
      東方同人の発展ぶりには目を見張るべきものがあります。私がこのジャンルに入ったのが紅魔郷発売とほぼ同時期でしたが、まさか数年でビッグサイトでオンリーイベントを開く規模のジャンルになるとは夢にも思っていませんでした。私だけでなく、こんなに発展することを予想できた人はいないのではないでしょうか。
      一般人に受け入れられづらいシューティングというジャンル、京極夏彦と森博嗣を足して2で割ったような曖昧模糊として理解しがたいストーリー、ライトゲーマーを容赦なく撃墜する難易度設定。ここまでマニアックなゲームが受け入れられ、二次創作が発展した背景には、(もちろん可愛らしいキャラクターや美しい音楽、すばらしいゲームといったアトラクションがあるとしても)なにかほかのジャンルにはない要素があるのではないでしょうか。

      決まったキャラクター、決まった舞台設定、決まったテーマから生み出されるバリエーションのあるシナリオ


      幻想郷の世界設定の特徴として、「時間の経過が(はっきりとは)描かれない」という部分があります。例えば学園ものでは進級や卒業といったイベントによって時間の経過が表されますが、東方において明確な成長の表現は行われません。それはなぜかでしょうか?
      第一に日本の田舎が持つ「循環する時間観念」があげられます。つまり、今年も来年も同じような時間が待っているに違いない、という"信仰"のことです。最近はてな村でも話題になっていましたね。
      第二に、Utopia/ユートピアという言葉に、Uchronia/ユークロニア(歴史のない世界)といった意味が含まれていること。完成した世界であるユートピアには改良して変化させるべき部分がありませんから、"歴史"を記録する必然性がなくなるのです。東方においても"六十年に一度歴史が発生し、循環する世界"という世界観が紫香花で表現されています。
      そういった世界設定のもとに生み出される同人作品は、自然と他ジャンルとはことなった様相を示しはじめます。原作エピソードの補完や、原作以後の世界を描く作品が主流となる同人において、「キャラクターを自由に配置し、著者の好きなストーリーのもとに自由に物語を展開させる」といった作品がメインとなっていくのです。
      奇妙なことだと思いませんか?これは明らかに東方に独特な現象です。
      とことんまで記号性を強調されたキャラクター、あいまいなストーリーと世界設定、そういったものが積み重なったおかげで、東方同人全体が、まるで原作を中心としたシェアード・ワールドのように見えます。実際のところ、東方ならあなたが描きたい物語を好きなように書くことができます。コメディもシリアスも恋愛譚もほのぼの萌えだって、どのキャラクターを中心にしてでも展開することもできます。他作品と比べて、世界設定にキャラクターが強く結びついていませんから。

      手軽にストーリーを生成できること/深いテーマを表現できること が、東方の二次創作が発展した理由かも?


      シェアード・ワールドの常として、どうしても同じようなストーリーや展開が繰り返されるという欠点があります(アリマリはもうお腹いっぱいとかそういうの)。しかし、それを超える利点として、キャラクターやストーリーを読者が事前に理解しているために、作者が語りたいことをより深いところまで伝えやすくなるということがあげられます。「レミリアが霊夢に会いに博麗神社に向かう」「鈴仙が永琳のもとで薬師修行をする」「魔理沙が氷精をからかう」...ただのシチュエーションの羅列でさえ、よく訓練された東方オタなら、そこに登場するキャラクター達の心情やその後の展開を容易に想像できるのではないでしょうか。レミリアが霊夢に会いに神社に向かうときには、レミリアの心の中に霊夢への思慕があることは(明確に表現されなくても)読み手が理解してくれます。
      作者(送り手)と読者(受け手)の両方に共通の相互了解があるために、冗長な事前説明なしで人物観の感情の機微を描くことができる。これこそが東方の記号性がもたらした恵みでしょう。

      というか、本家のストーリーもそんな感じですよね。ZUNさんが出演キャラクターと場面を先に決めて、あとは彼女達の動くままに任せる。私たちはすでに知っている主人公達と、新しく登場したキャラクターの掛け合いから彼女達の性格や立場を理解し、キャラ付けという記号化のもとに二次創作を形成する。新作が出た当初に絵板や創想話でかならず起きる「キャラ付け合戦」は、まさに「新作キャラに自分の好きな記号を付加する」行為にほかなりません。記号性の高さから生まれる現象でしょう。


      カードゲームはストーリー生成装置だ!


      東方同人の「記号性」がもたらす「シェアード・ワールド化」についてみたところで、さあ、カードゲームの話にもどりましょう。この章は、「カードゲームをプレイする行為が東方同人の創作と同一である」というお話です。
      wikipediaのコンメディア・デッラルテの記事をさきに読んでおくと、理解しやすいと思います。

      カードゲームのランダム性が本質的にもつバリエーション


      さて、ここからが本題です。どうして萃符伝がカードゲームなのか?それは、カードゲームが本質的に展開の予測できない様々なバリエーションを含んだゲームであることによります。
      「展開の予測できない」というのは、「ランダム性がある」ということです。たとえばランダム性のないゲームの例としては、将棋や囲碁があげられます。どちらのゲームも、プレイヤーがとりうる選択肢は常にすべて提示されています。不確定要素は、相手がどうプレイしてくるか、という一点のみです。あなたが十分に上手ならば、ゲームの展開をかなり先まで「予測できる」でしょう。
      それにたいして、麻雀やポーカーなどのゲームは「予測できない」ゲームです。ゲームの重要な部分を乱数が支配しているため、どんなに上手なプレイヤーでも「このゲームは必ず勝てる」とは言えません。
      M:tGに代表される対戦カードゲームも、ランダム性をゲームの中心に据えています。あなたがどんなに綿密な計算に基づいてデッキを構築したとしても、次に引いてくるカードは不明なままです。このランダム性は、戦略性に統計と確率という深みをもたらすとともに、盤面に予測不能な多様性をもたらします。

      細切れにされた物語を再構成することで、ユニークな物語を創造できる


      ここで、カードゲームを面白くする要素として「ストーリー」がカードごとに設定されていたことを思い出してください。原作から抜粋された物語は、いまや細切れにされ、記号化されたカードとして立ち顕われました。この記号化されたカード達を自由に組み合わせて、新しい物語を作り出す行為。これって、まさに東方の二次創作ではないですか?
      もちろん、漫画や小説とまったくおなじわけではありません。記号を組み合わせて好みのストーリーを作り出す点では同じですが、細部まで作者がストーリー展開を決定できる漫画や小説と違って、記号化されたストーリーをお互いに提示し合いながら、予測のつかない物語を一定のルールと対話に基づいて紡いでいく。これこそが、漫画や小説では表現しえないカードゲームにおける「ストーリー」にほかなりません!

      だから萃符伝のカードは、同一のキャラクターでもたくさんの方向性がある


      ところで、バリエーションのある展開を実現するためには、ありとあらゆる記号を表現したカードが必要になります。それこそ5W1Hゲームのように、「ルナチャイルドが、真夏の夜に、パチュリーのベッドで、森近霖之助を、特売大安売りした」とか(なんかネチョい)。どんなにナンセンスだと思えるものでも前後の展開によっては物語となる可能性がありますから、先の例のように意味不明なカードも用意しなくてはなりません。
      とはいえ、もちろんカードプール的にもイラスト的にも(絵師さんになんて頼めばいいんです?)そんなことができるわけがありません。
      そこで、(本家M:tGもそうですが)萃符伝ではシチュエーションではなく、「キャラクターの性格ごとに」カードを記号化しました。性格ごとのカード化というのは、射命丸文あたりがわかりやすいでしょう。記者としての文と、山の妖怪としての文です。
      《画像》
      こうやって分割すれば、発生する様々なシチュエーションに対応することができます。ストーリーの展開をプレイヤーの想像力にゆだねることになりますが、むしろがんじがらめにパッケージ化されたストーリーを追っていくだけより楽しいんじゃないでしょうか。(このへんはTRPGにも通じるところがありますね)

      実は第三弾を出した直後、ある方から萃符伝に関しての意見をいただきました。「キャラクターごとのまとまりがよくわからない。1つのキャラクター、たとえば、諏訪子と諏訪子のスペルカードをみればどんなタイプのデッキを組めばいいかわかるように方向性を統一した方がよかったんじゃない?」
      そのときは「あー、なるほど、そうですね」とだけ返答しました。私が考えていることを、その場でうまく説明できる自信がなかったからです。(この文章はその方への返答でもあります)
      つまり、キャラクターごとに方向性を定めてしまうと、せっかく東方同人がもつ多様性を殺してしまうことになりかねないということ。プレイヤーによって異なる物語を表現するためには、キャラクターの二面性やさまざまな立ち位置を表現する必要があること。キャラクターの持つ二面性はイラストやフレーバーテキストだけでなく、カード性能にも顕われています。性格の異なるカードを用意することで、様々な物語の断片の組み合わせた物語の源=デッキを作成することができるようにするためです。

      みんな対戦するときに、シーナリを想像しながら対戦するとずっと面白いよ!


      というわけでずいぶん長くなりましたが、これが「萃符伝が東方カードゲームであるたった1つの理由」です。全然1つじゃなかったですけど(笑)
      私がこの文章でいいたかったことは、ぜひみなさんが対戦するとき、ゲームとしてのかけひきだけでなく、盤面で展開される幻想郷の人妖模様を想像してほしいのです。できれば対戦相手とともに、めまぐるしく変化する物語を楽しんでください。初対面の人だとさすがに気恥ずかしいと思いますが(笑)、気心の知れた友人と遊べばゲームが何倍にも楽しくなること請け合いですよ。

      世界設定シリーズはまだまだ続きます。以前の繰り返しになりますが、世界設定シリーズで表現された物語は、カードを制作するときに仮の物語として描かれたものであって、プレイヤーが従わなくてはならない"規則"ではありません。ストーリーを膨らませたりつけくわえたり、あるいは全く無視するのも自由です。
      どうか、あなたの楽しみの一助となりますように。

      最後に、音楽家・平沢進のメッセージを引用して、結びとさせてください。私が言いたかったことは、こんな単純なことなんです。

      私はこのアルバム『点呼する惑星』を作るにあたって、ある物語を作った。しかし、それは創作の地図として作ったに過ぎず、伝えたいメッセージとして在ったものでは ない。
      これは音楽の作品である。物語は音楽の流れを整えるために解体され、断片化された。
      まずは音楽として楽しんでもらいたいと思う。
      「点呼する惑星」の物語は、リスナーの数だけ有っていいのだ。

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タイトルはホッテントリメーカ―で(ry

こんばんは、yifeです。今回はずっと書こうと思ってきた

「どうして萃符伝はカードゲームなのか、東方なのか?萃符伝はなにを目指しているのか?」

について書きたいと思います。
実は、このテーマについてはずっと書こうとしながら、なんども挫折してきたテーマでもあります。というのも、あまりにもテーマが大きすぎて、うまくまとめられなかったんですね。
今回もうまくいくかどうかは正直不安なんですが...世界設定シリーズを再開するにあたってどうしても書いておくべきだろうと思ったので、書きます。わかりにくいところがあったらコメントなりでつっこんでやってください。

ちなみに、毎度のことですが、以下に書いてある文章はyifeの個人的な考えであり、幻想萃符伝製作委員会全体の意見や、他のメンバーの考えを顕したものではありません。ご承知置きくださいませ。


面白さの差?


トランプゲームってやったことあります?ポーカーとかブラックジャック。あれ、あんまり流行んないですよね。大富豪ならそこそこ盛り上がるけれど、すぐに飽きちゃうし、わざわざ集まってやりたいほどでもない。
それに比べて、ゲーム交流会の盛り上がりようといったら!VISIONも幻想の宴も、月イチくらいのペースで大会がありますよね。大富豪とVISION、どこに違いがあるんでしょう?
なになに?「単純じゃないか、面白さの差だよ」ですって?うん、それはその通り。私も同意します。でも問題は、いったいどこに面白さの差があるんだろう、ってことなんですよ。

私は、その差はストーリーにあると考えます。←結論


ストーリーのないカードゲーム


こんなトランプゲームを考えてください。お互いに1セットずつ、53枚(ジョーカー含む)のデッキを1つずつもって、開始時に10枚引きます。
いっせーのっせ!で手札を出し合って、大きい数字を出した方が勝ち。負けた方は、数字の差だけデッキを捨て札置き場に捨てます。これを繰り返して、先にデッキがなくなった方が負け。
捨て札をみれば、お互いに何のカードがデッキや手札に残っているかがわかりますし、デッキの内容はどちらも同じなので、純粋に戦略の読み合い、心理戦がものをいうゲームになります。すごくフェアなゲームですし、戦略性も高いですよね。

実はこのゲーム、私が友人と何度も遊んだことのあるゲームなんですが・・・飽きるんですよね。ひたすら数字を出していくだけじゃつまんない。
しかし、その友人がすばらしいアイデアを考えつきました。彼は、自分が書いていた小説のストーリーに、トランプゲームを絡めたのです。
神様や精霊同士が戦う小説だったのですが(そこ廚くさいとかいわない)、数字を攻撃、絵札をアーティファクトや使い魔、ジョーカーを神様本人に書き直したカードを作って遊んでみたら、何度でも遊んでみたくなるゲームに変化しました。。小説の内容を知っているので、「これはあの場面の再現だ!」なんて叫びながら、半日そのゲームにつぶしていたのを覚えています。
ちなみに、そのゲームの改良版がSAKURA CONで"Anima Cardgame"という名前で発表されています。なかなか好評だったらしいですよ。

遊びたくなる要素


この経験から、私は気づいたのです。ゲームの面白さ、つまり戦略性等とは別に、「遊びたくなる要素」があるのではないか、ということに。
「遊びたくなる要素」は1つではありません。例えば、TVゲームなら画面の見やすさ、操作しやすいかどうか、なんかだとおもいます。「世界樹の迷宮」は、まさに"操作していて楽しい"という部分を追求することによって成功したタイトルでしょう。あるいは、(正確には遊びとは違いますが)Wiiのボタンをクリックする時の効果音や、ホーム画面で流れている効果音も、「また起動したくなる要素」として取り入れられています。
TVゲームやゲーム機にもあるのなら、カードゲームにおける「遊びたくなる要素」もあるはずです。


「遊びたくなる要素」を探せ!


カードゲームにおける「遊びたくなる要素」っていったい何でしょう?きれいなイラストや見やすいデザインでしょうか?周りにプレイヤーがたくさんいること?それとも、カードの値段が安いこととか?ブランドってのも考えられるかな?

後ろから検討していきましょう。(自分で提案しておいてなんですが)カードゲームのブランドってありますかね?トランプならバイシクル、日本では任天堂というメーカーが非常に有名ですが、「バイシクル買ってきたからトランプやろうぜ!」「おお、任天堂のトランプじゃん!かっけー!」なんて会話は聞きませんよね。ブランドじゃなさそうです。

カードの値段はどうでしょう。友人にカードゲームを勧めて断られる理由の第一位が「お金がかかりそう」です[要出典]。みなさんも経験があるんじゃないでしょうか。
しかし、トランプやUNOは非常に安価で手に入るにも関わらず、さほど遊ばれているとも思えません。日本だけでなく海外においても、ギャンブルとしてのポーカーやブラックジャックは一定の人気がありますが、ギャンブルでないトランプゲームは遊ばれていないというより「だれもそんなゲームを知らない」状態です。となると、値段も要因としては考えられません。

プレイヤーがたくさんいること?でも、UNOも大富豪もみんな知ってるけど、友達と集まったときに遊びます?普通、大富豪よりVISIONですよね(モンハンかも知れないけど)。

イラストやデザインは?これは、意外に大きなファクターかもしれません。どんなにルールシステムが難解でも、好きなキャラクターが出演していれば人気が出る、つまり繰り返し遊ばれるのはご存知の通りです。ううむ、つまりイラストが重要なファクターというわけですね。
(別に特定のゲームを批判しているわけじゃないことをご承知置きください(でもリセは難解すぎると思う))。

かわいいイラストだけじゃ駄目?


美しいイラストやかわいらしいビジュアルを前面に押し出したカードゲームが最近増えていますよね。リセをはじめ、プロジェクトレボリューションとかヴァイスシュヴァルツとか、有名ですよね。特にリセとヴァイスシュヴァルツの人気がすごい。気づいたら、周りでやってないの俺だけになってるし。「おれの嫁デッキ」とか言ってるの。もうドン引き。
しかし、考えてみれば不思議です。リセもヴァイスシュヴァルツもプロレボも、既存のアニメ・ゲーム・エロゲからキャラクターを持ってきています。それに比較して、オンラインTCGとして有名なアルテイルはすべてオリジナルキャラクターですが、ショップがアルテイルの大会を定期的に開くという話は寡聞にして聞きません。
オリキャラだと人気が出なくて、既存のキャラクターだとプレイヤーが集まる。イラストの可愛さ・美しさでアルテイルが劣る訳ではないのに、どこにその差があるんでしょう?イラストが重要なファクターだと前に書きましたが、単にイラストが可愛いだけじゃだめで、ほかに要素があるんですね。
アルテイルになくてリセやヴァイスシュヴァルツにあるもの。それこそが、「ストーリー」なのです。

(続く)

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キャラクターについての話のつづきです。より適したcharacterに(1)(2)もあわせてどうぞ。
ちなみに、記事の順番がばらばらなのはライターがサボってるわけじゃなくて、単にそういう趣向だからです。……わかんにくいですかね?
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気付いた方もいらっしゃるかもしれません。
その一つは、『2体ならともかく、3体、4体と複数場に出たとき、コイン投げをする順番はどのようにして決めるのか?』という混乱を引き起こす事です。
とはいっても、これはコイン投げではなく無作為に決めるとすれば、プレイ中の手順は煩雑ですが整理できなくもない欠点です。
カードにも混沌の掌握のようなカードはありますしね。

問題なのは、もう一つの方でした。
それは、『実際の運用を考えたら、旧レジェンドルールと大差が無い』という事です。
どういうことか、例を挙げて説明しましょう。
以下に述べる状況は全て、あなたのメインフェイズに起こっているものと考えてください。
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<状況1>
あなたは平地と山と島をそれぞれ2つずつと《いたずらする妖精人形》以外のパーマネントをコントロールしておらず、手札には《永遠に紅き幼き月、レミリア・S》があります。
対戦相手は基本土地、《レミリア・スカーレット》、《人形の魔法陣纏い》以外のパーマネントをコントロールしておらず、手札はありません。
ライフはどちらも10以上で、あなたが若干勝っており、まだ決着の気配はありません。ライブラリーからも良いカードが引ける事を期待できます。
さて、この状況であなたは《永遠に紅き月、レミリア・S》をプレイするでしょうか?
<状況2>
あなたは4つの山と3つの沼以外のパーマネントをコントロールしておらず、手札には《永遠に紅き幼き月、レミリア・S》と《妖魔夜行》があります。
対戦相手は基本土地、《レミリア・スカーレット》以外のパーマネントをコントロールしておらず、手札はありません。
ライフはどちらも10以上で、あなたが若干負けていますが、まだ敗北を心配するほどでもありません。ライブラリーも良いカードを期待できます。
さて、この状況であなたはどう行動しますか?
<状況3>
あなたは6個の平地以外のパーマネントをコントロールしておらず、手札には《楽園の素敵な巫女、博霊霊夢》だけです。
対戦相手は基本土地、《博霊霊夢》、《軍隊の長槍持ち》以外のパーマネントをコントロールしておらず、手札は何枚もありますが土地だけと分かっています。
あなたのライフは5、対戦相手のライフは9で、除去は大体使い切り、ライブラリーから良いカードを引いてくる可能性は低いでしょう。
さて、この状況であなたが《楽園の素敵な巫女、博霊霊夢》をプレイしますか?
また、するとして、そのときの気持ちはどのようなものでしょうか?
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状況1で《永遠に紅き幼き月、レミリア・S》をプレイする方は恐らく少数派ではないかと思います。
敗北の恐れが無いならば、6マナと1枚が無駄になる可能性があるコイン投げの賭けを取るよりも、少々のダメージを覚悟して除去などを引く事にかけるほうがプレイングとしては手堅いでしょう
状況2では、普通なら《妖魔夜行》打ってから《永遠に紅き幼き月、レミリア・S》を出しますよね。
わざわざ除去があるこの状況でコイン投げに行くというのは接待プレイとしか言いようがありません。
状況3は流石に《楽園の素敵な巫女、博霊霊夢》をプレイしコイン投げに賭けざるを得ないわけです。そのときの気持ちは人それぞれだとは思いますが、当時の私たちや、外部のテストプレイヤーの方々(別の第1弾スタッフの方の人脈なので現在はその人たちにはテストプレイを頼んではいないはずです)には、コイン投げに勝った時の喜びよりも、負けた時の落胆やコイン投げに頼らなければいけない状況の不安さが勝る人が多かったようです。

コイン投げルールは普通にプレイングしようとすれば、極端に追い込まれたときを除いて旧レジェンドと使われ方が変わりない、つまり問題点がほとんど解決されておらず、このままではプレイ時のストレス要素になってしまうだろうと考え直しました。
と言う訳で、またしても、蹴られた過去の案をほじくり返して、再提案するというウザい事この上ない行為をすることになったのです。
しかも、タイムスタンプではなく「自分でどれを残すか選べる」ように便利さを上方修正させた状態で。
勿論、上述のとおり旧レジェンドルールに疑問を抱いていないスタッフ・同じキャラクターが2体存在する事がどうしても納得行かないスタッフもいらっしゃったわけですので、説得はかなり時間がかかりました。
そのような方には何度も説得を試み、今のキャラクタールールで行く事を少々強引ながら納得させたのです。
こうして、割と入稿が迫ってきた時期にキャラクタールールはようやくその形を完成させたのでした。

以上、当時のチャットログと自らの記憶を頼りに、私の視点から見たキャラクタールール形成の過程・如何に私が我侭を貫き通したのかを語らせていただきました。
長文にお付き合いいただきありがとうございました。
私としては未熟ながらも当時の出来る限りの最善と独善を尽くしたつもりですが、皆様のキャラクタールールに対する印象はどのようなものでしょうか?
あなたのお気に入りのキャラクターが、あなたのデッキの中で存分にその力を発揮して活躍する事を願ってます。
幻想回向、No70、残酷な裁判官/Cruel Judge

残酷な裁判官

六道の話をしましょう。
六道はその名の通り六つに分けられていますが、その中でも最下層に位置するとされるのが地獄道です。いわゆる「地獄」と言えば通りがいいでしょう。
その地獄道を見守るのが彼女、黒の裁判官です。

残酷という、裁判官に有るまじき形容をされてしまっている彼女。しかし、彼女の立場はそんな一言で表されるような物ではありません。
そもそも地獄道というのは、閻魔による裁判でもっとも罪が重いとされた者が落とされてしまう道です。最近はスリム化が進んでいるそうですが、それでも人々にとって恐ろしい場所であることには変わりありません。人は(妖も)地獄に落ちる事を避けるために生きているといっても過言ではないでしょう。
それでも、人々は地獄道に落ちるに値する罪を犯します。耐え難い事の筈なのに、絶えることなく。それは、人を見守り裁くことが仕事の閻魔にとってはとても悲しい事です。地獄道そのものを見守る彼女にとってはなおの事。
彼女だって、彼らを地獄道に落としたくなんてありません。地獄道で苦しむ人々を見る事は、誰だって嫌なのです。
ですが、彼女が裁きの手を緩める事はありません。なぜなら、地獄に落ちなくなっては人は地獄を恐れなくなってしまうから。適度な恐怖こそが、人が上を目指すための唯一の術だから。
だからこそ、彼女は無慈悲な裁きを続けるのです。たとえ残酷と罵られようとも。
「同じカードを何枚も引くという限定的過ぎる状況を前提とした能力なんて発揮する機会がなさ過ぎて、わざわざ能力にする意味が無い」という理由により却下されたのです。
最も重要な部分は壮大ではなく「複数のキャラクターカードを作れる事と、同一キャラの残り方」だったのですが、当時の私の説明の仕方が悪く、壮大の能力がメインであるような印象を与える書き方であったため、議論もその方向で進んでしまったため、このような批判も仕方が無い事でした。
かくして、キャラクターのルールは、私1人が空回りしただけで終わるかのように思えたのですが、このルール、思わぬところで復活の機会を得ます。

その切欠は宣言の能力がセットに採用されることが決定した事でした。
宣言という能力の提案そのものはもっと前から、それこそ幻想萃符伝製作委員会が起こった当初からあったのですが、それが正式に採用される事になり、能力の内容を詰めていたとき、一つの問題が上がったのです。
『該当するキャラクターをコントロールしている場合に効果を持つ宣言だが、その「該当するキャラクターをコントロールしている」という判定は何を見て行うのか?』というものです。
クリーチャータイプにキャラの名前を入れるとか、遊戯王式に「名前に~と入っているクリーチャーをコントロールしている場合」といった形で行うのか、など意見は出ますが誰もが納得するような決定打は現れません。
そんな時、総スカン食らったにもかかわらずキャラクターのルールに未練たらたらだった私はひらめいたのです。
「これは、キャラクター復活のチャンスなのでは?」と
すかさず、以下の様な形でキャラクタールールの再提案をしました。
・キャラクターのクリーチャーはキャラクター(キャラ名)という能力を持つようにする
・宣言でキャラクターを参照する場合、(キャラ名)の部分を参照するようにすれば良い。
・キャラクター自体の能力は以前キャラクタールールのうち『キャラクターを持つクリーチャーが自分のコントロール下で場に出たとき、既に自分が共通のキャラ名を持つクリーチャーをコントロールしていた場合、タイムスタンプで先に出ていた方を生贄に捧げる。』の部分だけとする
今振り返ると、満場一致でボツになった案を何度も持ってくるなんて、我ながらなんというウザい行為なのでしょうw
ともかく、この提案は全員に受け入れられ、キャラクタールールは見事『限定的に』復活することが出来たのです。
限定的というのは、大枠としては受け入れられたこの案なのですが、一部分だけ賛否両論となった部分があったのでした。
それは『キャラクターを持つクリーチャーが自分のコントロール下で場に出たとき、既に自分が共通のキャラ名を持つクリーチャーをコントロールしていた場合、タイムスタンプで先に出ていた方を生贄に捧げる。』という、伝説性に関わる部分です。

幻想萃符伝製作委員会のスタッフのMTG歴もバラつきがありまして、旧レジェンドルールに慣れきった方とっては、「新しい方が生き残る」とか「プレイヤーが違えば、同じキャラクターはコントロールしていてもOK」という状況は受け入れがたいものがあったようです。
再び、最初の地点に戻ってキャラクターの残り方をどうするかで終わり無い議論を繰り広げる事になったのです。
そして多数決の結果、終着点として行き着いた先はなんと「同じキャラクターが2体場に存在するときは、コイン投げでどっちが残るか決める」というものだったのです。
場に出してもコインの結果次第で後に出した方にもチャンスはあり、場に1体だけという状況も維持できるという「一見しただけなら平等性があるように見える」ルールは、皆の意見の妥協点として受け入れられ、とりあえずは議論も決着し、このルールで進めることになったのでした。

ココを読んで下さっている方々には驚かれている方も多いと思われます。
その不安の示すとおり、いくら酷いカードを多く世に出したセンスの無い私たちでも、カード内容もある程度決まってテストプレイを重ねていけば流石に気づいたのです。
この「コイン投げ」ルールには2つの大きな欠点があるのだということに。

(続く)

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