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幻想萃符伝製作委員会

Author:幻想萃符伝製作委員会
東方カードゲーム、幻想萃符伝に関してあれこれと。

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東劇おつかれさまでした!萃符伝担当の方が遅刻してきて開演前はどうなることかとハラハラしましたが(笑)、無事に一日を過ごすことができました。
えー、私は途中からVISION大会だったわけですが;チーム優勝しちゃったよ(アリスチーム)。

東劇の記事は別記事にするとして、今回の記事は前回の続きになります。途中から読んでも意味不明だとおもうので、前回の記事を読んでからどうぞー。


PREVIOUS ON THE ARTICLE (前回までの記事)


タイトルは24から(ry

  • 戦略性やバランスを追求すれば「おもしろいゲーム」はできるけれど、「繰り返し遊びたくなる」ゲームにはならない

  • 「繰り返し遊びたくなる」カードゲームは、イラストが重要

  • でも、綺麗なイラストを使ったゲームでも、繰り返し遊ばれているものと、そうでないものがある。その差はどこに?



    • その差=ストーリーのイメージしやすさ


      リセもヴァイスシュヴァルツなど、既存の作品からキャラクターを持ってきたゲームは成功している、ということがわかりました。(ここでの成功とは、繰り返し遊ばれるということです)
      これはなぜでしょう?考えられる理由は、「プレイヤーがキャラクターに思い入れがあるから」です。この理屈はわかりやすいですね。だれだって好きなキャラクターを使ってゲームをしたいと思いますもの。
      とはいえ、これが完全な解答とはいえないでしょう。リセには数多くの作品からキャラクターが登場していますが、リセプレイヤーはすべての作品をプレイし、愛しているのでしょうか。かなり疑わしいところです。有名なゲームからキャラクターを持ってきていますから、登場キャラクターを全く知らないということはないにしても、(私見ながら)「○○は俺の嫁」と公言して憚らないプレイヤーほど、往々にしてそれ以外のキャラクターにさほど思い入れのない印象があります。
      先ほどの仮説の根幹を変えないような修正は可能でしょうか。たとえば、「プレイヤーがキャラクター間のストーリーを想像できるから」というのはどうでしょう?
      「○○がもし、△△の世界で活躍していたら」「○○がもし、△△と友人だったら」などという、いわゆる"クロスオーバー"作品は(常に浴びせられる激しい批判にも関わらず)古今東西を問わず存在します。クロスオーバーとまでゆかなくとも、原作に描かれていないシーンやストーリーを妄想して楽しんだ経験はだれにでもあるのではないでしょうか。
      つまり、既存のキャラクターを使ったカードゲームが成功する理由は、それぞれのキャラクターの世界観や設定が細かく定められており、別のキャラクターとの魅力的なストーリーを思い描きやすいからではないでしょうか?いや、そうに違いない!

      世界設定やビジュアルは、ストーリーのための小道具、ストーリーの補助装置だ


      ストーリーのイメージしやすさがゲームを面白くする要因だと考えると、いろんなことが納得できます。美しいビジュアルが好まれるのはキャラクターをより強く連想するためで、フレーバーテキストはカードがどのような状況を表しているかを示すため。実質的に誰も読んでいないMagic: the Gatheringの単行本も、”読んだ人がプレイすればより面白いゲームができる”からこそ、毎回書き下ろされているんですよね。
      むしろ、どのプレイヤーも無意識にストーリーの重要性を理解しているのではないでしょうか。そうでなければ、ファンデッキなんて成立しませんよね!

      第一章まとめ;カードゲームには戦略性やゲーム性以外に、「ゲームを面白くする要素」がある。それは、「プレイヤーがカード同士のストーリーを想像すること」である。




      東方の二次創作は、コンメディア・デッラルテのような即興劇(幻想劇)である


      さて、「カードゲームを面白くする要素」がわかったところで、いったん別の話に入りましょう。
      次の話題は、「萃符伝はなぜ東方ジャンルなのか」です。いいかえれば、カードゲームをつくりたいだけならオリキャラや他ジャンルでもかまわないのに、なぜ東方ジャンルで制作しているのかなのか、ということです。もちろん制作者が東方好きだからということが一番ですが、それとは別に「東方同人がカードゲームそのものであるから」という理由があります。これを解説しましょう。

      びっくりするほど幻想郷


      (この部分は前置きなので、読み飛ばしてもかまいません。)
      東方同人の発展ぶりには目を見張るべきものがあります。私がこのジャンルに入ったのが紅魔郷発売とほぼ同時期でしたが、まさか数年でビッグサイトでオンリーイベントを開く規模のジャンルになるとは夢にも思っていませんでした。私だけでなく、こんなに発展することを予想できた人はいないのではないでしょうか。
      一般人に受け入れられづらいシューティングというジャンル、京極夏彦と森博嗣を足して2で割ったような曖昧模糊として理解しがたいストーリー、ライトゲーマーを容赦なく撃墜する難易度設定。ここまでマニアックなゲームが受け入れられ、二次創作が発展した背景には、(もちろん可愛らしいキャラクターや美しい音楽、すばらしいゲームといったアトラクションがあるとしても)なにかほかのジャンルにはない要素があるのではないでしょうか。

      決まったキャラクター、決まった舞台設定、決まったテーマから生み出されるバリエーションのあるシナリオ


      幻想郷の世界設定の特徴として、「時間の経過が(はっきりとは)描かれない」という部分があります。例えば学園ものでは進級や卒業といったイベントによって時間の経過が表されますが、東方において明確な成長の表現は行われません。それはなぜかでしょうか?
      第一に日本の田舎が持つ「循環する時間観念」があげられます。つまり、今年も来年も同じような時間が待っているに違いない、という"信仰"のことです。最近はてな村でも話題になっていましたね。
      第二に、Utopia/ユートピアという言葉に、Uchronia/ユークロニア(歴史のない世界)といった意味が含まれていること。完成した世界であるユートピアには改良して変化させるべき部分がありませんから、"歴史"を記録する必然性がなくなるのです。東方においても"六十年に一度歴史が発生し、循環する世界"という世界観が紫香花で表現されています。
      そういった世界設定のもとに生み出される同人作品は、自然と他ジャンルとはことなった様相を示しはじめます。原作エピソードの補完や、原作以後の世界を描く作品が主流となる同人において、「キャラクターを自由に配置し、著者の好きなストーリーのもとに自由に物語を展開させる」といった作品がメインとなっていくのです。
      奇妙なことだと思いませんか?これは明らかに東方に独特な現象です。
      とことんまで記号性を強調されたキャラクター、あいまいなストーリーと世界設定、そういったものが積み重なったおかげで、東方同人全体が、まるで原作を中心としたシェアード・ワールドのように見えます。実際のところ、東方ならあなたが描きたい物語を好きなように書くことができます。コメディもシリアスも恋愛譚もほのぼの萌えだって、どのキャラクターを中心にしてでも展開することもできます。他作品と比べて、世界設定にキャラクターが強く結びついていませんから。

      手軽にストーリーを生成できること/深いテーマを表現できること が、東方の二次創作が発展した理由かも?


      シェアード・ワールドの常として、どうしても同じようなストーリーや展開が繰り返されるという欠点があります(アリマリはもうお腹いっぱいとかそういうの)。しかし、それを超える利点として、キャラクターやストーリーを読者が事前に理解しているために、作者が語りたいことをより深いところまで伝えやすくなるということがあげられます。「レミリアが霊夢に会いに博麗神社に向かう」「鈴仙が永琳のもとで薬師修行をする」「魔理沙が氷精をからかう」...ただのシチュエーションの羅列でさえ、よく訓練された東方オタなら、そこに登場するキャラクター達の心情やその後の展開を容易に想像できるのではないでしょうか。レミリアが霊夢に会いに神社に向かうときには、レミリアの心の中に霊夢への思慕があることは(明確に表現されなくても)読み手が理解してくれます。
      作者(送り手)と読者(受け手)の両方に共通の相互了解があるために、冗長な事前説明なしで人物観の感情の機微を描くことができる。これこそが東方の記号性がもたらした恵みでしょう。

      というか、本家のストーリーもそんな感じですよね。ZUNさんが出演キャラクターと場面を先に決めて、あとは彼女達の動くままに任せる。私たちはすでに知っている主人公達と、新しく登場したキャラクターの掛け合いから彼女達の性格や立場を理解し、キャラ付けという記号化のもとに二次創作を形成する。新作が出た当初に絵板や創想話でかならず起きる「キャラ付け合戦」は、まさに「新作キャラに自分の好きな記号を付加する」行為にほかなりません。記号性の高さから生まれる現象でしょう。


      カードゲームはストーリー生成装置だ!


      東方同人の「記号性」がもたらす「シェアード・ワールド化」についてみたところで、さあ、カードゲームの話にもどりましょう。この章は、「カードゲームをプレイする行為が東方同人の創作と同一である」というお話です。
      wikipediaのコンメディア・デッラルテの記事をさきに読んでおくと、理解しやすいと思います。

      カードゲームのランダム性が本質的にもつバリエーション


      さて、ここからが本題です。どうして萃符伝がカードゲームなのか?それは、カードゲームが本質的に展開の予測できない様々なバリエーションを含んだゲームであることによります。
      「展開の予測できない」というのは、「ランダム性がある」ということです。たとえばランダム性のないゲームの例としては、将棋や囲碁があげられます。どちらのゲームも、プレイヤーがとりうる選択肢は常にすべて提示されています。不確定要素は、相手がどうプレイしてくるか、という一点のみです。あなたが十分に上手ならば、ゲームの展開をかなり先まで「予測できる」でしょう。
      それにたいして、麻雀やポーカーなどのゲームは「予測できない」ゲームです。ゲームの重要な部分を乱数が支配しているため、どんなに上手なプレイヤーでも「このゲームは必ず勝てる」とは言えません。
      M:tGに代表される対戦カードゲームも、ランダム性をゲームの中心に据えています。あなたがどんなに綿密な計算に基づいてデッキを構築したとしても、次に引いてくるカードは不明なままです。このランダム性は、戦略性に統計と確率という深みをもたらすとともに、盤面に予測不能な多様性をもたらします。

      細切れにされた物語を再構成することで、ユニークな物語を創造できる


      ここで、カードゲームを面白くする要素として「ストーリー」がカードごとに設定されていたことを思い出してください。原作から抜粋された物語は、いまや細切れにされ、記号化されたカードとして立ち顕われました。この記号化されたカード達を自由に組み合わせて、新しい物語を作り出す行為。これって、まさに東方の二次創作ではないですか?
      もちろん、漫画や小説とまったくおなじわけではありません。記号を組み合わせて好みのストーリーを作り出す点では同じですが、細部まで作者がストーリー展開を決定できる漫画や小説と違って、記号化されたストーリーをお互いに提示し合いながら、予測のつかない物語を一定のルールと対話に基づいて紡いでいく。これこそが、漫画や小説では表現しえないカードゲームにおける「ストーリー」にほかなりません!

      だから萃符伝のカードは、同一のキャラクターでもたくさんの方向性がある


      ところで、バリエーションのある展開を実現するためには、ありとあらゆる記号を表現したカードが必要になります。それこそ5W1Hゲームのように、「ルナチャイルドが、真夏の夜に、パチュリーのベッドで、森近霖之助を、特売大安売りした」とか(なんかネチョい)。どんなにナンセンスだと思えるものでも前後の展開によっては物語となる可能性がありますから、先の例のように意味不明なカードも用意しなくてはなりません。
      とはいえ、もちろんカードプール的にもイラスト的にも(絵師さんになんて頼めばいいんです?)そんなことができるわけがありません。
      そこで、(本家M:tGもそうですが)萃符伝ではシチュエーションではなく、「キャラクターの性格ごとに」カードを記号化しました。性格ごとのカード化というのは、射命丸文あたりがわかりやすいでしょう。記者としての文と、山の妖怪としての文です。
      《画像》
      こうやって分割すれば、発生する様々なシチュエーションに対応することができます。ストーリーの展開をプレイヤーの想像力にゆだねることになりますが、むしろがんじがらめにパッケージ化されたストーリーを追っていくだけより楽しいんじゃないでしょうか。(このへんはTRPGにも通じるところがありますね)

      実は第三弾を出した直後、ある方から萃符伝に関しての意見をいただきました。「キャラクターごとのまとまりがよくわからない。1つのキャラクター、たとえば、諏訪子と諏訪子のスペルカードをみればどんなタイプのデッキを組めばいいかわかるように方向性を統一した方がよかったんじゃない?」
      そのときは「あー、なるほど、そうですね」とだけ返答しました。私が考えていることを、その場でうまく説明できる自信がなかったからです。(この文章はその方への返答でもあります)
      つまり、キャラクターごとに方向性を定めてしまうと、せっかく東方同人がもつ多様性を殺してしまうことになりかねないということ。プレイヤーによって異なる物語を表現するためには、キャラクターの二面性やさまざまな立ち位置を表現する必要があること。キャラクターの持つ二面性はイラストやフレーバーテキストだけでなく、カード性能にも顕われています。性格の異なるカードを用意することで、様々な物語の断片の組み合わせた物語の源=デッキを作成することができるようにするためです。

      みんな対戦するときに、シーナリを想像しながら対戦するとずっと面白いよ!


      というわけでずいぶん長くなりましたが、これが「萃符伝が東方カードゲームであるたった1つの理由」です。全然1つじゃなかったですけど(笑)
      私がこの文章でいいたかったことは、ぜひみなさんが対戦するとき、ゲームとしてのかけひきだけでなく、盤面で展開される幻想郷の人妖模様を想像してほしいのです。できれば対戦相手とともに、めまぐるしく変化する物語を楽しんでください。初対面の人だとさすがに気恥ずかしいと思いますが(笑)、気心の知れた友人と遊べばゲームが何倍にも楽しくなること請け合いですよ。

      世界設定シリーズはまだまだ続きます。以前の繰り返しになりますが、世界設定シリーズで表現された物語は、カードを制作するときに仮の物語として描かれたものであって、プレイヤーが従わなくてはならない"規則"ではありません。ストーリーを膨らませたりつけくわえたり、あるいは全く無視するのも自由です。
      どうか、あなたの楽しみの一助となりますように。

      最後に、音楽家・平沢進のメッセージを引用して、結びとさせてください。私が言いたかったことは、こんな単純なことなんです。

      私はこのアルバム『点呼する惑星』を作るにあたって、ある物語を作った。しかし、それは創作の地図として作ったに過ぎず、伝えたいメッセージとして在ったものでは ない。
      これは音楽の作品である。物語は音楽の流れを整えるために解体され、断片化された。
      まずは音楽として楽しんでもらいたいと思う。
      「点呼する惑星」の物語は、リスナーの数だけ有っていいのだ。

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